エゴは体験したくないと否定してしまうので、 その体験は完了されずに再配達されて、 何度も繰り返す

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792: もぎりの名無しさん :2011/02/28(月) 15:11:40 ID:psg5Ebes0

>751
ただ自己観察と別の領域に浸る事って何が違うのだろう?
と思ったのですが、観察対象に向かうのではなくて、

観察している場の心地良さを

感じてみるということですよね、多分。

その通りです~~。
私、愛とか安心感とか強調しすぎてたかもしれない

って思いました。それも制限ですね。
人それぞれに感じる感覚に、それが不快でないなら、

もっと自信もって浸ってていいんだと思います。

>>755
>僕の場合は、どんなに状況や気持ちが疾風怒濤でも、

自分の中に無風の場所があるってことを意識したら、
別の領域が見え始めたところです

あ、わかりやすい表現ですね。
自分の感じたことを言葉にすると、

わかりやすく伝えようとしてるのに

限定されてしまう部分もあって難しいです。

>>757
>私はただ「あー今イラついてるな」とか

「○○について不安に思ってるなー」

って思うだけなんですが
>それは「感じとる」とは違うのでしょうか。
>もっとしっかり感じきる、というか

イラついてるのも消えるまで感じた方が良いの?

イライラしたり不安になったりしたときに、その感情を

「感じとろう」とか「許そう」とか

そういった働きかけをする必要はないです。
「○○について不安に思ってるなー」と気づいたら、

「ああ私いま自分の反応に気づいてるな」

っていう自覚があればいいだけです。

それだけでその感情が収まるときもあるし、

収まらなくて感情に巻き込まれて

苦しいときもあるかもしれないけど、
それを観察してる自分さえ意識できてれば

段々それも出てこなくなります。

感情ってパターンなんですよ。
いろんな出来事を通してその感情を味わうことになるので

なかなか気づけないんですけど、
元になる観念が解消されれば、

以後そのパターンに反応することはなくなるんです。

自分の感情に気づき続けていると、

あるときふと、自分が何に反応してるのかとか
自分の観念に気づくときがあるんですけど、

それに気づいた時点でその観念が消えていくんです。
「感じきる」はそれを集中的にやることなんじゃないかなと思います。

804: もぎりの名無しさん :2011/03/01(火) 01:48:49 ID:psg5Ebes0

>802
>ならセドナの「手放しますか?」→「はい」or「いいえ」

のプロセスも別に
>重視する必要もないって事ですね?

セドナに限らず、手放せるときというのは、

自分の深いところでの気づきがあったときなんじゃないかと思います。
「手放しますか?」で自分の反応を探ることで、

自分に気づきを促すためのアプローチじゃないかな。
セドナは自分で決定して手放せた実感があるなら、

その人にとって有効な方法だと思います。

で、セドナをやってると簡単に手放せるときと、

なかなか手放せないときがあると思うんですけど、
なかなか手放せない観念というのは、

深い部分で気づきたくない、

認めたくない観念が絡んでいて
無意識にスルーしているので、

そこに気づけないうちは手放せないんです。

その部分に気づくまで繰り返し取り組んでいくのも

ひとつの方法だとは思うんですが、
そうなると観念探しゲームが始まって、

しんどい人もいるんじゃないかな。

自分を観察していると、

自分の反応パターンに気づくことで手放せるんですが、
これも結局は深いところでの気づきが必要だと思います。

なので、何かをすることで実感を得たいならセドナはいいと思います。

でも、せっかく「別の領域=自分に気づいている意識」

に気づけたなら、お任せしてみてはどうでしょうか。
別の領域に浸っているとわかると思うんですけど、

「問題」に取り組めないんですよね。
なら「問題」の側から「気づき」をさがすよりも、

喜びや心地よさの側にいて自分に気づいてるほうが楽ですよ。

805: もぎりの名無しさん :2011/03/01(火) 03:44:31 ID:YdES4Siw0

804 そーだそーだ
セドナは有効だけど、手放すことに夢中になっちゃうと

(拘り始めると)
「これを手放さなければ願望は叶わない」みたいな

エゴの条件付けの罠にまんまと嵌っちゃうから逆効果だよね。

セドナは解放できれば良いけど、できなくてもそもそも

“そういう観念・欲求がある”ということを

第3者的、客観的に捕らえるところに意義がある。
というわけで気楽にいきましょ~w

826: もぎりの名無しさん :2011/03/02(水) 23:00:51 ID:psg5Ebes0

>817
>別の領域の体感中の思考の扱い方を教えてください。

書いてたら、前置きがすごく長くなって、

しかもくどい文章になっちゃいました。
人それぞれ道筋があると思うし、

私自身もまだまだ先があると感じているので、
今の時点の認識ということで書いてみました。
そんなこともあるかもぐらいに

軽く読んでもらえればと思います。

ちょっと連投します。

827: もぎりの名無しさん :2011/03/02(水) 23:01:18 ID:psg5Ebes0

別の領域で感じる「無」には

すべてが含まれているんですが、
その「無」であり「すべて」というのは、

実は本当の自分のことです。

別の領域では「何も起こってない」とか

「既にある」とか「愛」「無限」「完璧」・・・

なわけですが、
そこは絶対性の世界で、そ

こで全部完結してしまっているので、

創造のプロセス(願望→実現)というものが存在しません。
だからここは「願望=実現」の領域なのです。

で、「本当の自分」は、

その創造のプロセスを体験してみたくて
「私」という個人意識のフィルターを使って相対性

(分離)の世界を体験することにしたわけです。

この「本当の自分」が海で、

「私」が波ということになります。

すべては幻想で、実際は何も起きていないけれど、

フィルターを通すと

様々な出来事が起きているかのように見え、
そして実際にはすべてがあるけれど、

フィルターを通すと何かが「足りない」ように見えます。
そうでないと、出来事を体験したり、

なにかを得たりする経験ができないからです。

なので私たちがそれぞれ体験している世界というのは、
「何も起きていない実相」を「私」という

フィルターを通して投影した

それぞれオリジナルの世界です。
だから「私=世界」になるんです。
私たちは、この「私」という

それぞれの個人意識を通して見る世界を知りたくて、
「OO(個人名)という人間として生きている」

というフィルターを装着しました。

このフィルターというのは観念のことで、

人それぞれにオリジナルのフィルターを

たくさんつけています。

私たちは長年肉体が自分自身だと思っていたので、

自分の体が気に入らないと思ったり、
起きてるように見える出来事を体験して、

多くの場合は苦しんだりしてきたわけですが、
「本当の自分」から観ると、

そのプロセスを経験することは喜びだったりします。
退屈なストーリーよりも、

悲劇的で複雑なストーリーのほうが面白いという感覚です。

エゴはそのことを知らないので、

「もっと違う体がよかった」とか「環境を変えたい」と思って、
投影の現れである現実の中で、

あれこれ試行錯誤し続けてきたんですが、

もう投影されてしまった結果を変えようとすると、
そこは分離の世界なので、

「ダイエットしなきゃきれいになれない」とか

「OOするにはもっとお金が必要だ」とか、
さらに分離に基づいたフィルターを

増やし続けるしかなかったんです。

「OOが欲しい」と思うことは、

「OOがない」というフィルターを通して

世界を見ているんだけど、
さらに「OOを手に入れるためには××をしなくては」

というフィルターを追加して、

どんどん制限を増やしているだけです。
それらのフィルターを外していけば、

「既にある」ように世界が見えてくるよってことで、

リリースしようとするんだけど、

結局、分離にいながら分離から

抜け出ようとすることになるので、
それがまた「観念をリリースできなきゃ

OOは手にはいらない」

という新たなフィルターになることも多くて、

停滞してしまう。

828: もぎりの名無しさん :2011/03/02(水) 23:01:50 ID:psg5Ebes0

日常の中で、お金を支払うときに

「これ買って後で困らないかな」と思ったり、
ケーキを食べた後に後悔してしまったり、

顔を見ただけでムカつく奴がいたり。
自分にとって当たり前になりすぎてると

気づきにくいかもしれないけど、

たいてい同じシチュエーションを体験するときは、

思考プログラムが起動して自動的に思考が再生されています。
そしてその自動再生された思考に反応して、

感情では「この環境のせいで不快なんだ」と感じています。

だから不快な感情やよくない思考をしていると、

その通りの嫌な現実が起きてくるよというのは正確ではなくて
元々そういう体験をしたくてそのフィルターを選んたのに、

エゴではそれを体験したくないと否定してしまうので、
それは完了されずに再配達されて、

何度も繰り返してしまうんです。

ここでその不快な感情を感じつくすことで

体験を完了させることができると、
「本当の自分」はもうそのフィルターに

興味がなくなるので、それは消えていきます。
すると、同じ場面でも不快な感情を感じなくなるし、

出来事自体も変化してきます。

で、この方法とは違う方法で、

リリースしなくても別の領域で気づいていれば

自然と消えるよといっているのは、
別の領域は、「私」という

フィルターをつける以前の領域だからです。

分離する前の、すべてである領域です。
「気づいた時点で消える」という表現は、

他にどう表現したらいいかわからないんですけど、
「手放そう」とか「消そう」とか「~~しよう」

とするような性質のものではないという意味で使用しました。
別の領域では「~~しよう」

とすることはできないので。

そこに留まっていると、段々、

自分が今まで自分だと思っていた分離の思考が、

自分のものではないということがわかってきます。
そして、体験するフィルターを選べる立場である

「本当の自分」であることがわかってきます。

なので、「現状を受け入れろ」といわれているのは、

「現状で我慢しろ」という意味ではなくて、
「この現状は、『本当の自分』

が体験したくて選んだんだ」

ということを受け入れろという意味です。

自分が体験したくて選んだんだ

ということを受け入れられなければ、

自分が体験を選べる立場であることを

否定していることになるので、
エゴのなかで制限された体験しかできません。

だから今の肉体も、周りの環境も、

本当は自分で選んだんだと認めて受け入れるんです。
現実は自分が選んだとおりの完璧な結果だ

ということを受け入れていると、

起きているすべてのことが愛おしく思えてきます。

エゴから見れば不足を感じる現実だとしても、

もう現実の中で格闘する必要がないことがわかるし、
「本当の自分」という立場に立てば、

すべては愛からだったということがわかるからです。
そしてもちろん、自分の望む現実が選べる

ということがわかるからです。

829: もぎりの名無しさん :2011/03/02(水) 23:02:15 ID:psg5Ebes0

ずっと分離されてたと思っていたので、

別の領域に気づいたからといって

すぐさま何もかもが変わるわけではないです。
今までのエゴの習性がすっかりなくなるわけでもないです。

「問題」によっては簡単に解除されるものもあれば、

時間がかかるものもあると思います。
人それぞれつけてるフィルターが違うので、

「本当の自分」を信頼できるようになるまでには

個人差があると思います。

この世界で生きることを選択している限り、

個人意識を完全になくすことは難しいし、
まだまだ個人として楽しみたいことも

たくさんあると思うので、なくす必要もないのだけど、
個人でありながら、世界であるためには、

別の領域で自分を観ている存在でいることなんです。

>>817
ですので>>818さんのおっしゃってる通り、

エゴが出てきても気づいていればいいんです。
気づいている=本当の自分に意識をおいている

ということは、エゴにはなんの力もありません。

何か起きているように見えるのは、

自分を深く知るためにそう見えてるだけで、

実際はそれも愛なんだと思います。

なのでエゴが出てきても焦らないでいいですし、

ときにはエゴに巻き込まれることがあっても、
「あー今巻き込まれてたわ。まだ人間だから仕方ないよね。

でも私はエゴじゃなくて別の領域の感覚を信頼するわ」
と再確認するようなかんじでいいんじゃないかなと思います。

>>824読みましたけど、

うまくできてると思いますよ。
思考停止は私もあまり長くできないです。
どうでもいいような雑念が沸いてくるときは、

無理にとめようとしないで、そ

の思考に捕らわれないように流していくような感じです。
毎回出てくるような自動思考なんかは

「またプログラムか。」ってかんじでバサッと

効果音つきで削除する場合もあります。
あと強い感情を伴うような思考だったら、

離れた位置から眺めてる感じです。

831: もぎりの名無しさん :2011/03/02(水) 23:48:18 ID:LY5SRFCs0

自己観察さん(=psg5Ebes0さん)、

いやーすごい!!

良くここまで分かりやすく言葉に直して下さった!!
ほんとすごいわ、あっぱれ、あんたが大将!(は?www)
何かここまでの決定版て感じ。

プリントアウトして何度も読もう・・・
どうもありがとう~!

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