前スレで「東京に早く戻りたい」と書き、
叶ったように生活するのは
行きにくい秘湯の評判の良い旅館に
あたかも東京にいるかのように優雅にお茶をし、リラックス。
そして遠路はるばるではなくサクっと車で秘湯に行き、新鮮な地場野菜たっぷりの
夕餉を食し、温泉でリラックス。
想像しただけでなんと優雅だろうと心躍っています。
108さん
>この「今叶ったかのように振る舞う」メソッドの問題点は、
>いつか指摘しておこうと思っていました。
私のようなやり方で問題点は解消されると考えていいでしょうか?
> 叶ったように生活するのは若干難しいですが
そんなことはする必要はありません。
「今叶ったかのように振る舞う」メソッドの問題点は、
指摘したとおりです。
東京の紅茶店でお茶とお菓子を注文したのは、全く構いません。
ただ、それで「やっぱり東京の方が良いんだよ~!」
という思考と感情にならないように、注意しておいてください。
現在の居場所で、東京と同じ喫茶が体験できることを喜んでください。
その体験を、そのまま評価してください。
「でも、東京での店の雰囲気等はない」ということに焦点を合わせず、
「東京の紅茶店の、お茶とお菓子を味わえる」ということに、喜びを感じてください。
小旅行で優雅に過ごすことも、もちろん良いことです。
不足に焦点を合わせず、喜びにのみ、焦点を合わせてください。
どこかに行かなくても「今ここで楽しいことや嬉しいことがある」
ということを充分に感じてください。
東京にいてもいなくても、同じように喜びを感じることを見つけてください。
たくさんあると思います。
> 私のようなやり方で問題点は解消されると考えていいでしょうか?
あまり上手くやろうと思いすぎないでください。
そういう不安があるうちは、「一刻も早く東京に戻りたい!」
ということを保留に出来ていません。
実は、どうすれば東京に戻れるかを、本当はあなた自身が知っています。
根拠などなくても、そこを信頼してみてください。
「私は、一体どうやって東京に戻ってこれたんだろう?」
と、人ごとのように振り返ってみてください。
答えは探す必要はありません。
淡々と、たびたび問いかけてみてください。
>92
「過去も変わる」というのは、ピンと来なくて当然です。
「おぉ~っ!凄いぜ、本当に変わった!!」
というような形で認識できるようなことではないからです。
私は、過去はもの凄く頻繁に、日常茶飯事に変更されていると思っています。
でも、この話題はまたいつかw
以前行動さんが考察を試みましたが、やはり引き寄せの理論内では難しいです。
いつか包括的に考察できたらと思います。
>>93
> その背景には、名乗りとか、アイデンティへの抵抗感とかあるのですか?
私がコテハンにしたのは、成り行き上でのことでした。
本来、質疑応答が済んだら名無しに戻るつもりでしたが、
スレを跨いだレスが必要になり、便宜上コテハンにしました。
読んだ人の中でキャラ化されない方が、
言ってることの真意が純粋に伝わるかな、とは思っています。
今はコテハンの方が、一貫した理論展開やメソッドの紹介が出来るため、
採用しているのです。
でも不思議なんだぜ~……
何でもあるはずのこの時代で、
増えていないような気がするんだぜぇ……
正確には「自分が幸せだと思う人の割合」
恐らく電化製品三種の神器時代の人から見たら、
ものすごく幸せに見えると思うんだぜぇぇ。
100年前の人から見たら、
でも日本じゃあまりの不幸さに
生きることが精一杯な時代や地域では、そんなことを考えるヒマさえないのだぜ。
だからよう、今こそ義務教育の期間にでも「幸せ」という科目でも作ればいいと思うんだぜw
面白い発想ですが、何かのマニュアルにしたがって
誰かに「これが幸せということなんだよ」
と教わる授業なら、私はまっぴらですなw
私が先生なら、
「今から45分間、幸せを感じてみましょう」
とだけ言って、あとは生徒に自由にさせます。
これを週一回続けていたら、
幸せを実感する能力は育まれるんじゃないでしょうか。
これって>>68の、なんよさんの話ともつながってるような…。
「働いた対価分の収入しか受け取る資格はない」
我々は、どうしてもこう思いがちです。
でも本当は「そんなこととは関係なく、我々は最初から皆、豊かですよ」
ということです。
「正直者は馬鹿を見る」と思っていれば、そうなります。
エゴと別の領域とつながるのは、特別なことではありません。
本来の在り方に戻る、というだけのことです。
それは難しい、という発想を止めてしまえばよいのです。
> >「今叶ったかのように振る舞う」メソッドの問題点は、指摘したとおりです。
> >「私は、一体どうやって東京に戻ってこれたんだろう?」 と、人ごとのように振り返ってみてください。
> 私の乏しい理解力では矛盾してしまうような気がするのですが
> この2つの違いを教えていただけますか?
「今叶ったかのように振る舞う」方法は、マーフィ等の自己啓発本で、
願望実現の効果的なメソッドとして、かねてから紹介されています。
まず成功する前に、一流ホテルのロビーで「その気になって」
経済新聞を片手にコーヒーを飲む、といった類のものです。
成功したときの気分や感情を、あらかじめ仮想体験してしまうことが狙いです。
このメソッドが、100%駄目だということを言っているのではありません。
もちろん有用な部分もありますし、効果的な場合もあると思います。
しかし、このメソッドの問題点は
「願望が叶っていない現在の状況に、より強力に感情の焦点を合わせてしまうことがある」
という点です。
東京に帰りたい方は、現時点でかなり焦燥感を感じていると思ったので、
そのメソッドを実行しても、願望と逆の方向に観念を強化しかねないな、と感じました。
ましてや、現在東京とは全く異なる環境にいる人にとって、
「東京にいる」かのように振る舞うのは相当困難です。
これらの理由から、このメソッドはこの方にとって適切ではありません。
「私は、一体どうやって東京に戻ってこれたんだろう?」
このメソッドは、振る舞うことを求めていません。
既に終わったこととして、振り返るだけです。
単に心の中で問いかけているだけなので、
現在の環境がどうということに、依存していないのです。
このメソッドは「今、自分が状況をどう感じているか」
ということとは、関係なく効果があります。
「問いかけること」だけが、メソッドを構成している要素です。
これは、単純に別の領域を作動させる言葉です。
この問いかけには、別の領域以外それに答えることが出来ないからです。
出来れば、スレの最後の方で私がレスしたときには、
新たな質問は次スレが出来るまで待ってください。
スレを跨ぐとアンカー出来ないため、引用が必要になります。
その場合でも、初めて読む人にはなんのことか
よく分からなくなったりしているように感じるからです。
よろしくお願いします。
以上です。豚斬り失礼しました。
それでは続き、レッツラ・ゴー!!
108さんが今までおっしゃっていることは、
最終的に、自己の設定した限界を手放し、
その設定を無限にする。ということで宜しい
でしょうか?
そして、そのメソッドは願望に対して抵抗する
部分を感じて受け入れ、その部分から答えを
得ていこうという事なのでしょうか?
前半部分に関しては、基本格子としては、そういうことです。
全ての制限が自らの観念によるものであることに気づき出すと、
この枠にはヒビが入って、既に割れ始めているということです。
枠が壊れてしまえば、本来あるべき状態へと戻ります。
それはますます容易になっていきます。
後半部分は方法論に関してですから、限定する必要はないと思います。
私のメソッドの中には、抵抗する部分を受け入れるどころか
意識的に無視するものもありますw
方法はなんだって良いんですよ。
> 何故、制限があるかといえば、自分自身を守りたい、
> 今の居心地を継続したい等の潜在的部分と感じますが、
そこは、もの凄く重要な部分です。
なぜ守らなくてはならないのか。
「守らないと酷いことになる」という観念があるからです。
なぜ今の居心地を継続したいと思うのか。
「今の居心地を継続しないかぎり、不愉快なことが襲ってくる」
という思いこみがあるからです。
そうやって、守らないと酷いことが起き、
今の居心地を維持しないかぎり、不愉快なことが起きるという現実を、
自ら創造してしまっているのです。
それはエゴの世界では真実です。
そういうマッチポンプで成り立つように、エゴの世界は構成されているからです。
その部分をハッキリと見つめ、この不毛な循環を断ち切らない限り、
いつまで経ってもエゴの範囲内のことしか起こりません。
つまり、本当の幸せに行き着けるわけがないのです。
この部分は、メソッド以前にしっかりとした認識を持つことが肝要です。
それなくして、自分自身に対する許可は与えられないからです。
> 実現したい・・・とのことなのでしょうか?
メソッドには様々なアプローチがあり、
抵抗感を見つめたり、それを感じてもそこには注目しないで
敢えて無視したりします。
作用点を色々とずらしたりして、効果的に作用する部分を状況に応じて使います。
人間的欲望がどうこう、という観点では考えていません。
全て「幸せ」という単語で一括りに出来ると思います。
そこに人間的欲望が入ってはいけない、ということもありません。
「幸せ」という観点で考えたり、感じたりすればいいのです。
あまり考えすぎないようにしてください。
…こんなところでよろしいでしょうか?
では、今日はこの辺で。。。
我々が「理性」と感じるものも、エゴの影響下にあります。
それは「この世界で上手くいくため」という考えが根本にあるからです。
つまり、発端は「恐怖心」なのです。
ここを発端としている限り、いかに知性的に思えても
それはエゴの範囲内にある、ということです。
知性が発達してきたのは、エゴによる営みの部分が大きいです。
いつからか、我々はこの知性を絶対的理性と勘違いするようになりました。
ドライブしていたところ、道が前方で二手に分かれています。
右はきれいに塗装された広くて緩やかな道路、
左は山へと登っていく細くて険しい獣道。
通常我々の理性は「右に進むことが安全」と判断します。
実は、右の道の先で大事故が待ち受けていたとしても、
我々の理性的判断はその事を知るよしもありません。
理性には「車を降りて、険しい山道を登る」という選択肢はあり得ないのです。
誇張しましたが、このようなことが日常で起きていることです。
当面やり過ごしたと思っても、それがその先幸せにつながっているのか、
理性は判断する術がありません。
そして
「おかしいなぁ。間違いなく正しい選択をしたはずなのに、
どうしてこんなことになるんだろう」
この繰り返しです。
大体、理性的判断が絶対的に正しければ、
世の中にはとっくにユートピアが訪れているはずです。
一見、
「そんなこと、全く合理性はない!」
ということが、あとで正しいと証明されたりするものです。
別の領域とつながっていると、エゴの影響を受けないで
本来の意味での理性を働かせることになります。
マーフィーが「神はやり損なうことはない」というのはこれです。
それは絶対的な視点から観測しているからです。
それは「判断する」という見地を超えています。
それは、ただ単に「知っている」という状態だからです。
私たちが理性だと思っているものは、
本当は非常に狭い領域における知性なのです。
そこでは「自分」という主体からしか、
そして肉眼で見たり判断したり出来る範囲でしか、理性が働きません。
生きていく上ではそれも必要でしょうが、それは
「エゴの範囲内で上手くやるためだ」ということを、念頭に置く必要があります。
その柵を取り払ってやれば、本当の理性が作動するようになるはずです。
そして、実はその方がエゴも喜ぶはずです。
エゴにはそれが見えていないから、
通常偏った形でしか理性を利用できないでいるのです。
私の理解の仕方として、
(トータルセルフ)ー(ハイアーセルフ)
>>111
いいんじゃないでしょうか。
ただ、それも便宜上の区分です。
私が「エゴ」「別の領域」と呼ぶのも、便宜上の区分です。
この考え方には、実は決定的な問題点があります。
それは「二極化」です。
気づくプロセスにおいては、この考え方は有効なのですが
気づいたあとは統合する方向に持って行った方が良いかな、と思います。
111さんの考えで行けば、引き算で分割していくのではなく、
トータルセルフがハイヤーセルフを、ハイヤーセルフがエゴセルフを
包括している、という風に考えるのです。
私の言い方なら、別の領域がエゴを内包している、という感じです。
別のものではなく、同じものなのです。
つまり、一部分を採用しているから歪んでしまうのであって、
全体から見てやれば、正しい姿が見えてくる、といった寸法です。
>>114
私が「エゴ以外の領域」と書くのは、その狭い了見を放棄して欲しいからです。
そうすれば、本来あるべき正しい観点で見たり考えたり出来るようになります。
でも、我々は通常「エゴの見方をしている」という意識すらないため、
気づくまでには、そういう二極化が必要なんです。
でも、本当は単に正常な見方に戻るというだけのことだと思っています。
>115
呪文さんの見解は、物理的な面でいうとそういう構造かもしれません。
でも呪文さんも仰っているように、それは「つながっている」ものなんですよね。
本当は「別」なものではなく、地続きであるということだと思います。
>>117
「不愉快なことなど襲ってこない!」
という見解を、大胆に採用してみてください。
本当にそうであることを証明するようなことが起きてきます。
その時は「自分がその見解をただ採用したこと」で
それが起こったということを評価してみてください。
認識が変わり始めると思います。
では、本当にこの辺で。。。
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